変われるってムテキインタビュー vol.23 SUPER SPINNS福岡PARCO店 朝倉美乃里

変われるってムテキインタビュー vol.23 SUPER SPINNS福岡PARCO店 朝倉美乃里

「変われるってムテキ」を世界中に。
それが、私たちスピンズのVISIONです。

世の中に服屋さんは星の数ほどあれど
私たちスピンズは「変われるってムテキ」を伝えたい服屋さん。
自らが変わっていくことで、自分の人生をクリエイトし
ワクワクを世界に伝えていく。

このインタビューは、そんな私たちの「変われるってムテキ」物語です。

今回のインタビューはSUPER SPINNS福岡PARCO店 朝倉美乃里さんにお話をお聞き致しました。

「ずっと気に食わなかった」と本音をぶつけた

ー 朝倉さんのSPINNS入社前のお話をお聞かせください。

朝倉 :中学1年生から高校、専門学校ずっと舞台だけをやってきた人生でした。
その後の進路となると事務所に所属する感じなのですが、私もいくつかの候補から東京の事務所を選び特待生として所属する予定でしたが、その進路を蹴ってしまいました。

朝倉 :当時、卒業公演のオーディションと事務所のオーディションが同時進行進んでいました。
その時の卒業公演の舞台脚本が、どうしても私がやりたかった演目に選ばれて、脚本が決まり、配役が決まっていくなかで私がやりたい配役で尚且つ私がやることになるだろうと信じていた配役に落ちてしまいます。

朝倉 :その出来事が原因でめちゃくちゃ病みました。
結局卒業公演は違う配役で出ることになるのですが、本番の当日まで心の中は荒れてました、本番のブザーがなるくらいギリギリの瞬間に私がやりたかった役の子のところに行って「ずっと気に食わなかった」と本音をぶつけるまでは。
最終的にはお客さんのアンケートに私の名前が一番書かれるような演技をしようと決めて舞台に臨みました。
この出来事によって所属する予定の事務所も住む予定だった物件もお断りして、結果的に東京に行くことを辞めて福岡に留まることになりました。

ー 卒業後は東京で舞台を続ける予定が全て白紙になった朝倉さんはどうされたのでしょう。

朝倉 :その後、所属事務所のないまま舞台を続けることになります。
通常舞台というのは事務所に役者さんが所属してその集団単位で公演をやり、役者が増えていったりという仕組みだと思うのですが、役者さんが所属していなくて照明さんとか音響さんとかだけが所属している劇団を始めます。
脚本と演出を自分でやって、その脚本に合う役者さんを選ぶか、もしくは役者さんに合わせて脚本を書いて役者さんを一番輝かすことができるプロデューサーでいようと決めて「みのプロ(みのりプロデュース)」を立ち上げました。

幼い頃から続けてきたものがなくなることの怖さ

ー 東京に行かなくなった流れから急な展開。そのエネルギーはどこからきたのでしょう。

朝倉 :幼い頃からずっとやってきたものが無くなることが怖かったのだと思います。
20歳まで舞台しかやってきたことがなかった勉強も運動も大してできるわけでもない私に何が残るのかという怖さ。
だからどうにかして舞台を続けられる方法を考えましたし、やりたかった自分もいたので「都会じゃなくてもローカルでもできる」ことを証明したくて都市部から地方にわざわざ観に来たくなるような舞台、劇団をつくったのだと思います。
元々少人数で強い個々がいる集団に惹かれていたのも動機の一つだったと思います。

この会社なら面白いイベントさせてもらえそうだなと思って入社

ー SPINNSに入ったきっかけはどういう経緯だったのでしょう。

朝倉 :元々ファッションがめちゃくちゃ好きで入ったわけではなかったんです。
福岡の店舗に立ち寄った時、たまたま「ガングロの日」でした。
スタッフの方達もみんなガングロで、お客さんもガングロで来たら割引があるというイベントの日に立ち寄った時に「大人が全力で真面目にふざけたことをやる」という姿勢に共感して、この会社なら今自分がやってるような面白いイベントさせてもらえそうだなと思って応募して入社しました。

朝倉 :SPINNSに入社して2週間くらいで辞めたいと思っていました。
入社当時、他のスタッフよりも私が年上の状態で入ったのでなかなか打ち解けれずにいました。
それで辞めようかと考えていたのですが「ここで辞めたら、他のところでも一緒になるんじゃない」と言われて「確かにそうだな」と思って辞めることをやめました。
その後は相手の立ち場に立つように心がけ、私はいつも通り接していくうちに、いつの間にか気にすることは消えてなくなりましたね。

関わった人たちの人生の中に大きな存在として残っていられるような関わり方をしよう

ー 働いていく中での分岐点はどんな出来事があったのでしょう。

朝倉 :しばらくしてレジの担当長にならないかと言われましたが、断りました。
当時、私は舞台がやりたかったので休みの日とかも舞台に使いたかった状況でした。
部下になるスタッフの立場に立って考えてみたら好きなことをやってる方がメインの活動の上司についていきたくないかもと思って断ることにしました。
でも、その後もずっと担当長に誘っていただいてました。

朝倉 :その頃の私は舞台があったので、仕事とプライベートを分けて考えていました。
なので同じお店の後輩のことはあまり考えていなかったと思います。
でも、今後舞台だけでは食べていけないということが分かっていたので、自分の将来を考えた時に担当長を引き受けることにしました。
でも、ただ引き受けたのではなくて「お客さんの心にずっと残っていたい」という気持ちで舞台を作っていたのと同様、担当長をやることで関わった人たちの人生の中に私が大きな存在として残っていられるような関わり方をしようと思い「最高の部門をつくってやろう」という気持ちで舞台もやめました。

「どこに行っても恥ずかしくない」レベルを目指す

ー 担当長になってどのような上司になっていったのでしょう。

朝倉 :私はめちゃくちゃ自分の部門を贔屓しました。
良くも悪くもスタッフに対して平等に接するタイプなのですが、自分の部門の子達にはめちゃくちゃスパルタで接しました。
優しい方の贔屓ではなくて、厳しい方の贔屓です。
遅刻や病欠とかも当時は多かったのも理由の一つですが、それよりも「最高の部門」にしたかったので私がいなくても回るような全員が担当長レベルになってもらいたかったのがあります。
最低限の業務レベルは担当長のレベルで、その他の個人個人の強みをその上で発揮してもらうようにしていました。
「どこに出しても恥ずかしくない」ような「どこの店舗に行っても」お客さんにもスタッフにも業務レベルも最高のレベルを目指していました。

手段を通じて人と関わり、その人の何かのきっかけになれたら嬉しい

ー 厳しさもあったと思いますが、スタッフとぶつかることは無かったのでしょうか。

朝倉 :ぶつかることはありましたけれど「なんでそんなことやらないといけないの」みたいなことは無かったと思います。
それよりもSPINNSに入社した動機が後輩と私は全然違うので、レジのような一見裏方のような業務よりも店頭に立ちたい子達が当然多かったです。
だから「思ってた感じの仕事と違う」といった不満はあったと思います。
でも、今振り返ってみてもその部門は最強だったなと思います、レジのスタッフにわざわざ会いに来るお客さんがいるくらいでしたから。

朝倉 :今はパーラーアンドギャラリーで飲食を担当させていただいていますが、飲食に興味があるかと言われたらありませんというのが正直な気持ちです。
ただ、飲食という手段を通じて人と関わって、その人が何かをはじめる「きっかけ」として私がいれたら嬉しいです。
元々やりたいことが多すぎて選べない私が「いろんな職業や職種や人物になれる」と思って選んだのが舞台でしたから、あくまで業種は手段なのだと思います。

「ムテキマーケをつくろう」

ー 朝倉さんにとって「ムテキ」とはどんなイメージでしょうか。

朝倉 :「ムテキ」難しいですね。
やっぱり「強い」ってことになるのですかね。
担当長になった当時、みんなに「ムテキマーケ(担当部署)をつくろう」と言ってましたから。

プロフィール
朝倉美乃里(あさくらみのり)
SUPER SPINNS 福岡PARCO店 PARLOR & GALLERY担当
長崎県雲仙市出身 22歳でSPINNSに入社。

インタビュアー
大槻彦吾 (g5designs & Co.)
1973年千葉県生まれ。現在は横浜市在住。
転勤族の家庭に生まれ幼少期から27回の引っ越しを経験。
高校卒業後韓国に5年間留学。 アパレルメーカーにて11年間生産・営業部長を経験。退職後ヒューマンフォーラム入社。
5年を経て社内研修を体系化。「人間が人間らしく活きられる」をテーマにキャリア・評価制度・チームビルディングをメインに
現在はg5designs.co.を主宰して持続可能な組織開発にあたっている。